
魚の視点で考える—釣り人たちの「さかな」観
釣り人は、魚の気持ちを理解できるのだろうか。「魚になったつもりで考える」ことは可能なのだろうか。
釣り人たちは誰しも、魚を求めて水辺に出かけていく。なぜ釣りに行くのかを問うてみれば、「魚を釣るためさ」と十中八九、同じ答えが返ってくるに違いない。
しかし、彼らの言う「魚」は必ずしも同じものを指すわけではない。狙いの魚種をひとつに決めて、日々釣りの腕を磨く人もいれば、季節と気分に合わせて、その時釣れそうな魚種を狙う人もいるだろう。あるいは、近所の池の「主(ぬし)」をどうにかして釣ってやろうと、日夜考えを巡らせる人もいるかもしれない。
釣り人それぞれのもつ「魚」のイメージはひとり一人違っている。この違いはどこから生まれるのだろうか。はたまた、あらゆる釣り人に共通する「魚」のイメージはあるのだろうか。
冒頭に挙げた問いは、答えを出すのが難しい。今回は、その少し前の段階、釣り人への丹念な聞き取り調査を通じて、釣り人の「さかな」観に迫った研究を紹介しよう。
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英国の人文地理学者BearとEdenは、「人間が動物をどのような存在として捉えているか」について研究していた。その過程で、釣り人と魚の関係性に思い当たった。当時の研究はペットや家畜に着目したものが多く、魚についての知見は皆無だったからだ。そこで、釣り人を対象に聞き取り調査を行うことにした。
調査対象は、イングランド北東部を流れるスウェール川とエスク川の釣り人たちが中心で、大きく3つのグループに分けられた。すなわち、釣り大会に参加して期間中の釣果の合計を競い合う本格派と、魚種にこだわらず釣りに出かけること自体を楽しむ人。さらに、特定の魚種の中でもより大きなサイズを追い求める スペシャリスト。
これら3タイプの釣り人それぞれに「自身にとって、魚とはどのような存在か」を自由に語ってもらい、その内容を書き留めて、釣り人の「さかな」観について考察した。
釣り人の語りを聞き集めていくと、「魚の気持ちになって考える」「魚がなぜ、そのポイントにいるか(いないか)を考える」といった表現が多いことに気付いた。そして、彼らの言う「魚」の意味するものがどうやら個々人で大きく違うようだ、と気付き、さらに掘り下げてみることにしたのだ。
ここからは、釣り人の口にする「魚」という言葉がもつ3つの階層について、彼らの言葉を引用しつつ紹介していこう。
一般的な「魚」
川で魚のいる場所はどこか?と聞かれると、釣り人たちはたいてい、速い流れと遅い流れの間にできる“ヨレ”だろうと答えた。
「魚たちは常に探しまわってるんだよ。餌が流れてきそうで、かつ流れの中で留まるのに最もエネルギーを使わないで済むようなところをな。」(チャールズ)
「魚ってのはたいてい、あそこに見えるようなヨレの中でうろついてるのさ。やつらがすることと言えば食うことだからな! それ以外には何もだ。やつらは好きな時に食って、寝て……。といっても寝てるように見えるだけで、実際どうか俺にはよくわからないが。まぁ、魚がするのはそれだけだ。」(マイク)
こうした見方は、あらゆる魚種に共通の基本的な属性を捉えようとする姿勢だといえよう。
魚がどこにいるか?を考える理由は当然、その魚を釣るためだ。魚の居場所を想像して、目の前にエサを提示する必要がある。この時にも、魚の気持ちになって考える局面があらわれる。
「『もし自分が魚だったら、あそこにいるか、あの辺りでじっとしてるだろうな』と考えなきゃいけない。で、その魚を釣ろうと思ったら、あの障害物の向こうに回り込む必要がある。そこから仕掛けを振り込んで障害物沿いに流していくと、その魚の目の前に、いい感じにエサがくるってわけさ。もしエサが魚の目の前を通り過ぎて、そいつが空腹だったら食いつくだろうね。」(トーマス)
「そうだな、魚の視点で考えてみるのがいい……もしエサが上から落ちてきたとして、どんなふうに沈んでいくかわかるか? ほら、何かその辺のものを川に投げてみるといい(と、彼は釣り餌をいくつか川に投げ入れ、それらが水底に沈んでいくのを二人で眺めた)。もしあの流れの真ん中あたりで釣るなら、魚のいそうなあの場所に仕掛けを流したければ、その少し上流に投げる必要がある。水の流れがあるからな。エサは真下に沈んでいかずに、流れに乗ってこんなふうに斜めに沈んでいくだろう?」(アーノルド)
種ごとに区別された「魚」
釣りに関する記事や書物の多くは、特定の魚種を釣るための(他とは違う特別な)釣り方を紹介している。釣り人も、好みの魚種を決めて釣りにいく人が多いだろう。
その場合、どの魚にも共通する大雑把な特徴だけでは足りない。より確実にその魚種を釣るために、種ごとの違いに注目して、狙いの種に合わせた釣り方を研究するのだ。
ニゴイ* 釣りを楽しむクレイグいわく:
「ニゴイは実際、釣れる魚の中でいちばんファイトの激しい魚だよ……やつらはそのために作られたみたいな魚さ。全身がほぼ筋肉で、尾びれや他のひれもほかの魚の2倍はあるから本当によく泳ぐんだ。サケやなんかよりもはるかにパワフルさ。そうだな、他とは比較にならない。」
* 正確には、日本のニゴイと近縁のBarbel
別の釣り人、ダミアンはこう語った:
「擬人化するのは間違ってるだろうが、チャブ(ウグイの仲間)は大半の魚より賢いね。それを知性と呼んでいいのかわからないが……。ずば抜けて賢いニゴイでさえ、大きなチャブと比べれば全然にぶいもんさ。彼らは知識があって物事をよくわかってる。」
個体ごとに区別された「魚」
釣り人にとって、どの個体を釣り上げたかが重要となる場面がある。たとえば、ある魚を二度目に釣り上げた時、何らかの目印や手がかりによって、以前釣った魚と同じ個体だと判断できることがある。
この瞬間、釣り人にとっては「他と見分けのつかない1匹」から「あの時自分が釣り上げたあの個体」になり、特定の個体との再会として認識されるわけだ。
「ある時、特徴的なしるし(病変)をもった魚を釣り上げたんだが、そこから2マイル上流で2年後に同じ個体が釣れたんだ。2マイルも上流で!」(ジェフ)
あるいは、特別に大きかったり、目立つ模様があったりして、他と明らかに区別可能な個体には、釣り人たちから特別な名前が付けられることもある。
たとえば、グレートウーズ川のニゴイ “The Traveller(旅人)”やワーフェ川のニゴイ “Three Whiskers(三本ひげ)”は、その特徴的な外見から、たびたび釣り人
ここまで顕著でなくとも、釣り人がある1個体を狙って釣ろうとする場面もある。ニゴイ釣りを専門にするミックは、釣り場に入るとある1匹に注目し、その個体の習性や動きをじっと観察してから釣り始めるという。
「ある大きなニゴイを釣ろうと挑戦していた時、その魚がエサを食べる様子を何度も何度も見ていたんだ。その場にいる大半のニゴイは、よそから来て数分エサを食べては出ていき、5–10分後にまた戻ってくるパターンを繰り返すんだが、自分の狙っていた特別大きい個体だけは、釣り場に現れると2時間ずっとエサを食べ続けて去っていく。それに合わせて釣る必要があるんだ。」
「さかな化」するヒト、「ヒト化」する魚
魚には独自の時空間がある。そしてヒトにも、独自の世界の感じ方がある。釣り人は「魚の視点で考える」過程を通じて、自身の行動を魚の時空間に適応させる。魚がそうするように、川の中の複雑な空間構造や季節の移ろいなどの周囲の環境条件に適応し、変化していく。筆者らはこれを“さかな化”(becoming-fish)と呼んだ。
釣りの営みによって、魚たちのふるまいも変化したりしなかったりする。季節ごとの釣り人の数、あるいは時代とともに移り変わる釣り
この観点からすれば、釣り人たちの思考は本来異界であった水中にまで到達しており、魚たちは釣り人の思考を通じて空中の世界に進出している。魚に合わせて行動を変える釣り人と、釣り人の行動に応じてさらに行動を変化させる魚たち。さかな化した釣り人と、“ヒト化”(becoming-human)する魚たち。
釣りを通じて、水中/空気中という暮らす世界の違い、魚/ヒトという種の違いを超越して、両者が溶け合いひとつの存在となっていく。水と空気、魚とヒトの接するところにこそ、釣りの営みの本質があるのだろう。
文献情報
Bear C. and Eden S. (2011) Thinking like a fish? Engaging with nonhuman difference through recreational angling. Environment and Planning D: Society and Space, 29: 336–352.