
魚の“磁気感覚”を科学する1──地磁気で方角を知る「磁気コンパス」
初めて釣りに入る渓流で、知り合いから極秘に教えてもらった、大物だらけの絶好ポイントに行ってみたい。こんな時、そこまではどうやってたどり着けばよいだろうか。
現地までの車移動では、カーナビに目的地を入力すれば、ポイント付近までの最短ルートを案内してくれる。車を降りてからは、スマホのGPSをオンにして地図アプリをひらけば、自分がどこにいて、どちらに向かって歩けばよいかはすぐに分かるだろう。
では、もし仮に、カーナビもなく、スマホの電池も切れたとしたら…?
そんなときでも、紙の地図と方位磁針さえあれば、いつかはお目当てのポイントにたどり着けるはずだ。
私たちは道具の助けを借りることで、見知らぬ場所であっても、自分の進むべき方向を知ることができる。
一方、道具をもたない魚たちの中には、生まれて一度も行ったことのないはずの場所へ、正確にたどり着けるものが存在する。
見通しの利かない水中で、地図もコンパスも持たないかれらは、いったいどのように目的地をめざすのだろうか。
磁気コンパスと天体コンパス
ベニザケ Oncorhynchus nerka の稚魚は、河川の砂利中に産み付けられた卵から孵化したあと、流れのゆるやかな水域まで泳いで移動し、餌をとって成長することが知られている。
たとえば米国北西部のシアトル近郊を流れるシーダー川(Cedar River)では、孵化した稚魚は川の流れに乗って下流へと泳いでいき、北に位置するワシントン湖(Lake Washington)まで移動する。
シーダー川から北へ400キロほど離れたカナダ南西部のチルコ川(Chilko River)では、稚魚は孵化後に川を遡上して南へ向かい、上流のチルコ湖(TŝilhqoxBiny / Chilko Lake)に到達する。
川を上るか下るか、どちらの方角に向けて移動するかは水系によって異なるものの、体長わずか数センチのサケ稚魚が、数キロ以上も離れた目的の湖まで正確にたどり着けるという事実は、古くから研究者の興味を惹いてきた。
ベニザケをはじめとするサケの仲間の多くは、海へ下った親魚が大洋を広く回遊して成長し、生まれた川(母川)に戻って産卵する。
このとき、母川を探し出す手がかりになるのは、地磁気、空の天体(太陽や星)の位置、水の匂いや地形に関する記憶、といった情報だと考えられている。
このうち、生まれてすぐの稚魚でも使えそうな情報は、地磁気と、空の天体の位置の2つに絞られる。
地磁気は地球上のあらゆる場所に存在し、場所ごとに「向き」と「大きさ」が異なる。
動物が地磁気の「向き」を感じ取ることができれば、特定の方角に向かって移動できる。この能力を「磁気コンパス」と呼ぶ。
(ちなみに地磁気の「向き」だけでなく、「大きさ」もわかれば、自身が地球上のどの地点にいるかを特定できる。これは「磁気地図」と呼ばれる。)
もしサケ稚魚が磁気コンパスをもつ場合(つまり、地磁気の向きを感じ取って、孵化後に泳いでいく方角を決めているのであれば)、稚魚が感じ取る地磁気の向きを人工的に変えることで、稚魚の向かう方角も変化すると予想できる。
一方、サケ稚魚が、太陽や星などの天体から届く光に基づいて方角を決めている=「天体コンパス」を持つ場合には、曇りの日や、水面が覆われた状況では、本来向かうべき方向に正しく移動できなくなるだろう。
米国の魚類研究者Quinnはこれらの予想をふまえて、川で孵化した稚魚が、地磁気と空の天体、どちらをたよりに泳ぐ方角を決めているか、実験で確かめることにした。
地磁気の向きを変えると、魚の向かう方角はどうなるか?
Quinn (1980) がおこなった実験は非常にシンプルで、川で採集したベニザケの稚魚(体長約3センチ)を水槽の中心に放し、各個体がどの方角に向かって泳ぐかを観察・記録するというものだ。
水槽は巨大なコイルの中に置かれており、コイルに通電することで、水槽内の地磁気の向きを約90度ずらすことができる。
また、光をほぼ通さない材質で作った、水槽を覆うカバーも準備し、晴れた日でも太陽や星からの光を遮れるようにした。
この水槽を使って、冒頭で紹介した2河川、シーダー川とチルコ川でベニザケの稚魚を採集し、それぞれの場所で条件を変えながら行動観察をした。
ふたつの川での「違い」
でははじめに、シーダー川の実験の様子を見てみよう。
シーダー川で生まれたベニザケの稚魚は、夜間に川を下って、北に位置するワシントン湖へと移動する。このため、実験は夜間のみおこなった。
水槽にカバーをかけず、地磁気の向きも変化させない自然な状態では、水槽に放した稚魚は北に向かって移動した。
次に、地磁気の向きを反時計回りに90度(北→西へ)ずらしたところ、稚魚の移動方向も反時計回りに変化した【図1A】。
同様の実験を、水槽にカバーをかけて空(星)の見えない状態でおこなった場合にも、地磁気の向きを反時計回りにずらすと、稚魚の向かう方角も反時計回りに変化した【図1B】。
つまり、シーダー川で生まれたベニザケ稚魚は、夜空の星の光ではなく、地磁気の情報をたよりに、泳ぐ方角を決めていたとわかる。
では、チルコ川の場合はどうだろうか。
チルコ川では、稚魚は昼間に川を遡上して、南に位置するチルコ湖へと向かうため、実験は昼間におこなった。
まず、水槽のカバー無しの状態で実験したところ、地磁気の向きを変化させても稚魚の泳ぐ方向は変化せず、常に南へと向かった。
一方、水槽にカバーをかけて空(太陽)の見えない状態で実験すると、通常の地磁気では稚魚は南に向かったが、地磁気の向きを反時計回りにずらすと、稚魚の泳ぐ方角も反時計回りに変化した【図2】。
チルコ川で生まれたベニザケ稚魚は、太陽が見える時はその光を、見えないときには地磁気を利用して、泳ぐ方角を決めているというわけだ。
このシンプルな実験によって、(一部の)魚が「磁気コンパス」と「天体(太陽)コンパス」の両方を兼ね備えていることが初めて実証され、一方が使えない状況下でも、本来向かうべき方角へきちんと移動できる仕組みが明らかになった。
そして、魚のもつこれらの能力(磁気コンパス・天体コンパス)についてより詳しく追究する取り組みが、この研究を皮切りに一気に進み始めたのである。
魚の磁気コンパスに関する研究は、この実験から50年経った現在も、世界中で活発に進められている。
目に見えない地磁気を、魚たちはいったいどうやって、体のどの部位・器官で感じ取るのだろうか。
そもそも、すべての魚が同じように、地磁気を感じ取っているのだろうか。
次回は、サケの仲間とは別の魚で見つかった、地磁気に関係する興味深い現象について紹介しよう。
文献情報
Quinn TP (1980) Evidence for celestial and magnetic compass orientation in lake migrating sockeye salmon fry. Journal of Comparative Physiology A, 137: 243–248.